舞鶴市議会の決議に見る“違和感”の正体
2025年6月30日。舞鶴市議会が、北陸新幹線の延伸ルートについて「現行の小浜・京都ルートを見直し、府北部を通る案を再考せよ」とする決議を可決しました。
その主張は、こうです。
「府北中部には何の便益もなく、公益性がみられない」
この指摘、一見すると理にかなっています。現行ルートは8割がトンネル。駅もできず、ただ通過するだけになれば、地域には恩恵どころか騒音と工事負担だけが残る…。そんな懸念ももっともです。
議会の「このままでは地方にとって新幹線が無意味になる」という危機感には、一定の共感を覚えます。
でも、私はあえてこう問い直したい。
そもそも今、新幹線誘致を叫ぶことが本当に“地方の未来”につながるのか?
❓新幹線が通れば地方は救われるのか?
過去を振り返れば、新幹線が開業したにもかかわらず、活性化に失敗した地方都市は少なくありません。
駅ができた。アクセス道路も整った。
でも――
まちは空洞化し、駅前のシャッター街はそのまま。若者も戻らない。
新幹線が来たからといって、
- 子育てしやすくなるわけでも
- 医療や福祉が充実するわけでも
- 働く場が増えるわけでもない
これが、いまの「地方のリアル」ではないでしょうか。
つまり、新幹線は生活の質を劇的に向上させる“魔法の杖”ではないのです。
🎭 「再生アピール」にすぎない政治のパフォーマンス
新幹線誘致は、一部の政治家や行政にとって、「やってる感」が出せる便利なアピール材料でもあります。とりわけ、他に具体的なビジョンを持たない場合はなおさらです。
実現までに20年、30年かかるようなプロジェクトを今打ち出すのは、市民の不安や不満から目をそらすための時間稼ぎに見えてなりません。
「いつか活性化するはずだ」
「駅ができれば人が来る」
そんな幻想を振りまく前に、足元の暮らしに目を向けてほしい。
🏝️ 観光地は、都会の“癒しの装置”ではない
地方は、都市部の人たちが「癒されに来るための舞台」ではありません。
地方は、誰かのレジャーランドでも、消費される非日常でもありません。
私たちが生き、働き、子どもを育て、老いていく――生活の現場です。
新幹線が来れば人が来る。
人が来ればお金が落ちる。
だから地方は整備して待っていろ。
こうした発想こそ、地方を“都会の植民地”として扱う構造そのものではないでしょうか?
- 地方は、都市の便利さを補完するインフラの末端ではない
- 地方は、都会のストレスを癒す商品ではない
- 地方は、自ら未来を描く意思と誇りを持つ存在です
🚫 地方の誇りを「高速鉄道」に委ねるな
誘致に熱心になる前に、私たちはこう自問すべきです。
- 高齢者が安心して暮らせる交通網はあるか?
- 若者が将来を描ける仕事と住まいはあるか?
- 子育て世代が不安なく暮らせる支援制度はあるか?
それらに目を向けず、「駅ができればなんとかなる」というのは、過去の失敗に学ばない怠慢にしか見えません。
✊ 地方は都会の植民地ではない
「地方創生」の名のもとに、都市の都合で地方を組み込むようなやり方に、そろそろNOを突きつけるべきです。
舞鶴に必要なのは、新幹線のルートではありません。
それよりも、「このまちでどう生きるか」「どんな未来をつくるか」という、住民の意思が反映されるビジョンです。
そして、私はこう宣言します。
地方は都会の植民地ではない。
地方には、地方の尊厳と意思がある。
この言葉を、新幹線という“夢の列車”に乗せて流されないように、今こそ声をあげましょう。