やばいぜ舞鶴
森本たかしならこう変える
今日は2023年1月29日(日)
今回は
舞鶴市に医師が来ない理由
2大カリスマ医師と敵対した舞鶴市長達
政治的対立が奪った舞鶴の医療
についてお話します。
この動画は舞鶴医療崩壊の理由を説明しています。
解決方法は次の動画
変えるぜ舞鶴
舞鶴医療再生のために
やるべきことを見てください。
今回はやばいぜ舞鶴、変えるぜ舞鶴
2つの動画はセットです。
最初に知識として知って置くべきことですが
舞鶴の医療、完全崩壊が確定した証拠となる日が
2013.8.15です
この日は福知山花火大 爆発事故があった日です
死者3名、負傷者59名を出した爆発事故で
福知山市民病院に45人、福知山の京都ルネス病院に4人、
綾部市立病院に10人を搬送しました。
その後、公立豊岡病院や京都第一赤十字病院に医師の応援を要請したほか、
兵庫県と大阪府からDMATが病院へ出動し、病院内で救護や転院調整が行われ、京都市消防局から消防防災ヘリコプターが夜間飛行で出動し負傷者の転院を行った。発生初日から翌日にかけ、約20人が10近い病院に転院、転院先には50キロ離れた大阪府済生会千里病院や兵庫県西宮市の病院も含まれます。
舞鶴は隣町でおきた、未曾有の大事故にもかかわらずに一切、協力してない(出来なかった)んです。
事故のあった2013年は2011年に多々見市長が就任して2年後
予定通り医療改革が進んでおれば協力できたはずですが出来なかったのです。
未曾有の大事故の後も舞鶴の医療は更に悪化を続けています。
なぜ福知山の事例を出すか?
理由があります。
舞鶴には海上自衛隊があります。
花火よりもはるかに被害が大きい他国からのミサイル攻撃されたときに
鶴の医療は役に立たないと私は言いたいのです。
つぎに知って欲しいのが舞鶴の歴史 これが大きく関係します
舞鶴の歴代市長
江守 光起1995年~2007年 12年
※2004年医療崩壊
齋藤 彰2007年~2011年 4年
多々見良三2011年~12年
舞鶴の政治44年の歴史から学ぶ必要があります。
覚えておくキーワード
研修医
「医師」は、医師免許習得後に基礎研究に専念するなどの臨床とは関わらない道を選ぶ医師以外については、医師で2年以上の臨床研修が義務付けられており、その期間に相当する医師「研修医」と呼ぶ
臨床研修を修了しない医師は診療所を開設することや病院・診療所の管理者(いわゆる院長)になる事ができない。
臨床研修病院(基幹型臨床研修病院)
医学部を卒業し、医師免許を取得した医師(臨床研修医)が、卒後2年間でプライマリ・ケア(病気の初期診療)の基本的な診療能力(態度・技能・知識)を身に付けるための臨床研修の実施及び管理を行う病院
以上がこの動画を理解するための知識です。
難しいですが覚えてください。
舞鶴の医療の全盛期は
舞鶴市民病院の全盛期です。
町井市長の政策で
市民病院は臨床研修病院として
日本有数の研修医聖地となりました。
アメリカから医師を呼び寄せて研修医の聖地と呼ばれていた。
タダでも勉強したい意欲のある医師が舞鶴にあつまっていた。
その中心となったのがDR M 後に臨床研修医のカリスマと呼ばれる医師です。
そのDr Mが中心となりアメリカから医師(医師を教える先生)を呼び寄せて
医師の指導に取り組んでいました。
アメリカ人医師の名はG・クリストファー・ウィリス氏
日本における卒後臨床研修システムの先駆けとなった人物です。
ウィリス氏招聘によって、日本の医療レベルは大きく向上、
Dr ウィリス氏とその後、臨床研修医のカリスマと呼ばれる
DR Mが教えた弟子たちは
今では日本の医療現場で大活躍しています。
特に優秀な弟子たちはDrMと同じ 臨床研修医を教える先生となって
弟子たちも同じく臨床研修医のカリスマと呼ばれる人材になっています。
そんなDrMと弟子たちに苦難の時が訪れました。
反町井派の筆頭であった江守 が市長になったときに
町井派の力を削ぐために大好評だった市民病院の予算を削減し続けました。
町井市長の力=医療 その力を削ぐために市民病院に圧力をかけ続けたのです。
江守はアメリカ医師の招聘を止めるように圧力をかけ続けました
アメリカ医師の給料1年で約1億
それでも当時としては医師のレベルからしたら1億は格安だったのです。
では何故か?
舞鶴市民病院の赤字が当時1~2億だったからです。
ただそれだけの理由です。
当時は
ただでも勉強したい意欲のある優秀な医師沢山集まっているので
アメリカからの医師を呼ぶのを止めると優秀な研修生が来なくなる。
赤字解消は市民病院に市役所から送り込まれた高給取りの無駄な事務職員を削減するほうが先だとDrMは江守市長に抗議しましたが
江守市長は研修医を雑魚呼ばわりしてDrMを批判しました。
大切な教え子を雑魚呼ばわりされたDrMは激怒し、市民病院を辞めました。
教え子たちもDrMの指導を受けるために舞鶴市民病院に来ていたので
カリスマ医師であるDrMが不在の市民病院で勤務する必要はなく
多くの弟子たちがDrMを慕って市民病院を退職したのです。
もちろんアメリカからの医師派遣も無くなりました。
多くの市民は共産党が市民病院の医師をそそのかして医療崩壊をさせたと思っていますがじつは違うんです。
自民党の町井市長と自民党の江守市長の権力争いで市民病院が崩壊したのです。
2004年医療崩壊 3年後に医療崩壊を招いた江守市長は
2007年に町井市長派の斎藤あきらと市長選挙を争い、負けました。
その後、町井派であった斉藤あきらと江守派は苛烈な権力闘争を続けました。
当時、多数派であった江守派は徹底的に邪魔をし続けます。
斎藤あきら市政の4年間は議会は全く機能しない状態に陥りました。
これは余談ですが
その時に議会運営のために斎藤あきらは自民党でありながらも本来は敵対する
共産党と手を組んだのがきっかけで現在のような歪な舞鶴の政治体制が出来上がったのです。
だから斉藤あきらの後継者である鴨田あきつが今回の市長選挙で斎藤あきらの手を借りて共産党と手を組もうとしたのです。
私が裏側をYou Tubeで暴露したことで
自民党 非主流派斉藤あきら その後継者 維新の鴨田あきつ
そして斉藤あきらと手をくんだ共産党 連合軍は手を組むことが出来なくなったんです。
これは裏交渉を私のYou Tubeで知った一般の共産党員が激怒したからです。
結局は斉藤あきら市政は
超優秀だった町井市長の手を借りても舞鶴の医療を1ミリも改善することができずに
次の江守市長が押した多々見市長に敗れ去ったのです。
ここからは皆様がよく知るとおりです。
江守市長一派に担ぎ上げられた多々見市長は4つの公的病院を
あたかも1つの総合病院として機能させる。
多々見市長の力で医者を連れてくると豪語して医療改革に取り組みました。
ここで多々見が最初に行ったのは医療再生ではなく
驚くべきことに舞鶴の医療のためにわずかに残ってくれたいた町井派の医師を
一掃することから始めたのです。
それが市民病院外来の廃止です。
その医師たちを取りまとめていたのが整形外科のカリスマとされていた
京都府内の某病院に勤務していたDr Nです。
町井元市長医のツテで当時から整形外科のカリスマとして多くの弟子たちを抱えていた
Dr Nが苦労して舞鶴に送り込んだ医師たちをいきなり解雇したのです。
もちろんDR Nは怒りますよね。
医療の世界では
総合内科(Dr M)、整形外科(DR N) は病院経営の主軸です。
お金を稼ぐためにどちらも大切な医療ですが
この2大医療の中心となる2大カリスマドクターの怒りを買って
舞鶴市に医師が来るわけなんて無いんです。
全国各地で2大カリスマドクターの弟子達が活躍してるのです。
つまり舞鶴市は多くの医師から憎まれ、嫌われ、そして干されているんです。
町井市長とカリスマ医師の力で日本有数の医療が充実した街になった舞鶴市は
江守、斎藤という2名の市長の政治的争いで崩壊しました。
その崩壊した医療現場を更に徹底的に潰したのが多々見市長です。
多くの研修医に慕われてカリスマ医師と呼ばれた
総合内科(Dr M)、整形外科(DR N)
2名のカリスマ医師が舞鶴で大活躍するのを
同世代の多々見市長が 嫉妬していたのは間違いないです。
その嫉妬心こそが
わずかに残っていた町井派の医師の解雇につながったのです。
ここまで来れば舞鶴に医師が来ない理由は明白です。
日本の医療会の2大カリスマと呼ばれた
総合内科(Dr M)、整形外科(DR N)
その弟子たちに疎まれた舞鶴市に医師が来るわけがないのです。
政治的な対立によって舞鶴市の医療は崩壊しました。
じゃあどうすれば良いのか?
続きは
変えるぜ 舞鶴でお話します。